ザ・パームス月島ルナガーデン 外観
ザ・パームス月島ルナガーデン

 浅草方面や不忍池から高台に兄えるし、本郷の台地も不忍池からは高台になっている。つまり、これらはいわゆる山の予の台地の1部である。しかし、「1本橋の名は知れわたっているが、日本橋台地の名はふつうには知られていそうにもない。それもそのはずで、日本橋台地というのは、地下に埋もれている台地なのである。このような涯き出しで日本橋台地を説いているのは、「富士はなぜそこにあるのか」です。この著書には東京の地形・地質について「東京の自然史(紀伊江屋書店川などの入門束京の自然史に関心を持つ人々にはよく知られた地理学者です。できれば、この章全部を引川したいところですが、ここではお許しを得て、つぎのように要約引用させていただきました。日本橋台地というのは、駿河台の南端、淡路町付近から東南にのび、日本橋、銀座と南にむかい、隅田川をこえて晴海方面に達するもので、これは中世に江戸前島と呼ばれた半島状の砂州とおおよそ一致している。太田道濯が築いた江戸城はいまの皇居の北東部、江戸城本丸のところであって、月島との間には、漁船をつけるに格好の人江があった。この人江はいまの日比谷公園から泉居前広場へと入りこんでいたものである。の日本橋・京橋・金融地区と千代川区の丸の内・有楽町・内幸町のある江戸前島を中心とした地区の工事現場で、若者が実際に確認した地層のことやボーリングの話があリ、日本橋台地は丸の内谷と昭和通り谷の間の台地だという説明を図でわかりやすくのべています。
日本橋台地の生いたちを推定して模型的に占いてみたものである。剛は、いまから約2万乍前の、氷河人拡大期の束てしまったのである。京都心部の様子である。このとき海水はいまより100メートル以下も低く東京湾はすっかり干ばつしていた。この陸地には、当時の利根川、荒川などを合わせた大河(束京川)が流れていたが、東京の地は、この人河にむかって流れこむ多くの支流によって谷をきざまれていた。その谷の一つが丸の内谷であり、一つが昭和通り谷である。その後、水河期が終わり、海水準は氷の融水によってほぼ今の海面までに上昇した。
およそ縄文時代後牛の、海面がほぼ現在の海面に近くなった時期の有様を楠いている。海面の上昇とともに新しい海岸の土地は波の力によって削られぱじめるが、日本橋台地は。こうして波によって削られた本郷台地の南の部分にほかならない。さきにみた東京駅、有楽町駅付近の日本橋台地上の粗い砂屑は、このときの波の作用による堆積物であり。貝殼が破片になっているのは肖時の波の荒さを物語っている。「日本橋台地の平さは、このように海の波によって侵食された、いわゆる波食台のたいらさに由米する。その後、この台地の上に砂州か形成されてできたのである。最後に、丸の内谷のなかに入りこんでいた人江は埋立てられて陸地となった。続きの下町低地が作られ、地下に日本僑台地や丸の内谷の凸凹ある地形があることがすっかりかくされている。都文化財調査報告を束京都教育委員会は昭和59年1月に、中央区地区文化財調査報告を刊行しました。その報告書の構成は1.人文地埋2.建築3.歴史4.民俗の各章です。文化期調査報告でありながら、とくに〔歴史〕についてあてられていることが、この報告書の特色だともいえます。
その歴史の内容は、「住古神社文書」佃島の漁業誌という報告で成立しています。神社文吉については、中央区教育委員会発行に従がった概要的報告です。佃島の全体的な沿革については、はじめて取リ上げられています。しかしその扱い方は、つぎに引用するような考え方によるものであったことが、これまた特徴的でありました。佃島の慨要、地質の部分です。
純粋な埋立地だったら、いくらこうした井戸を掘っても飲み水は得られなかったでしょう。波で削られて表面的には繋がってなくなっても地下でつながっていたからこそ、佃島は汀戸期依頼からの水脈を掘リあてて、井戸として利用できたのです。
この利便性が今の月島の発展につながっています。しかし、埋立地という点はマンション建築には場所によって都合の悪い場所です。中央区のザ・パームス月島ルナガーデンは分譲マンションで耐震もしっかりしているマンションなので築浅のマンションであれば問題ないだろう。