ライジングプレイス月島 外観
ライジングプレイス月島

 建築についてのくわしいことは省略しますが、翌年の安政元年までに、第1、第2、第3、第5、第6、の5つの砲台が完成しています。そしてこれを台場と呼びました。今はタワーマンションもあり、砲台があった場所とは思えないでしょうが、昔は今とは想像できない場所でした。今も第3と第6の二つの台場が、かっての姿の名残をわずかにとどめているのが見られますが、すべてを人力だけで、かも非常な早さで建設した結果、幕府の財政に人きく響いたことが記録されています。ということまで教えられています。それはさておき、米旧艦隊は浦賀から江戸湾奥深くいくような行狛をくり返したのち、来存に開国についての回答を受け取リにいくと、沖縄の耶晰に向けて出航しました。お台場建を幕府はその約2ヵ月半後の8月28日からと定めて、始めの計画では7ヵ所を築き、江戸に砲台の建設を開始しました。それから10年後の佃島砲台が建設された時点にもどりますと、この年の5月10川こ浜御庭(現在の浜離宮庭園)に砲台を新設する計画が起こり、すぐにその計画が防備のために、合計13ヵ所の砲台を新設することに改められています。これは10年前に造られたお台場の砲台では防げないことがわかった結果だったともいえます。
同じ時期に有名な「下関事件」が起きています。この事件を簡単に述べますと、萩藩の砲台から海峡を通過の米国商船を砲撃を実践しました。フランス軍艦2隻の通過中にも砲撃を加え、オランダ軍艦に対しても砲撃をしています。これに対してアメリカ軍艦が報復砲撃、5日にはフランス軍艦2隻も萩藩の砲台を攻撃し、砲台を破壊した。横浜を出発した7隻の英国艦隊が鹿児島湾で「薩芙戦争」もやっています。こうした状況の中で越巾島の海岸砲台の築造がされたのです。しかし実際の事情として日本在来の大型帆船でも、それまでの上砂で江戸まで入れなくて困っていたのですから、薬気船が湊に入れるはずはなかったのですが、負けぐせがつくとどうにもならないもので、人まじめに汀戸前の海岸の防備がきめられたのです。この辺のくわしい有様は軍歴史に史料として収められていますが、この計画による砲台建設場所と、中央区内の状況を紹介することにします。この13ヵ所のうち区内4ヵ所の場合を。もう少し細かく見ますと、浜御庭つまり今の浜離宮庭園の南角が、いかに江戸湊の航行に重要な場所だったかがわかります。ここに砲台をつくり左右の砲台と駝んで敢船に砲火を浴びせる計画でした。