ザ・パークハウス月島ディアスタ

また八幡太郎と呼ばれた源義家(1039~1106)の事蹟といわれる話が、汪戸の地誌には多くとりあげられているのですが、これは徳川家の遠い阻先が源氏だという串・から、それに関連づけた物語や〔おはなし〕が考案されたものですので、ここではその紹介だけにして、くわしくはふれない事にしました。幕府の海軍基地とは、川島の名のおこりとなった石川八左衛門について、耶府が将軍はじめ幕臣・人名の系誹をまとめた『冤政重眸諸家諧』をみますと、大略つぎのように書かれています。『政康より系をおこす』つまり街門の家は政康の系続から分派して、政康重康、取次、政次(止次)と続きます。その政次の下に「八左衛門、人隅守従位下」と書かれています。経歴は文禄3年(159・1)に初めて泳康に拝謁、慶良18年(1613)に重次の遺領の2500石を抑統して使番となリ、元4113年(1617)には1000石の加増を受け、寛冰2年、また1000石を加増されその知行地は安明安房郡ですべて合わせて4500石になリ、正保9日に寄介組に入り、寛戈元年に現役からしリぞき、翌2年に80歳で没したと記載されています。そして特記事項として竟永17年に鴎軍より「今よりのち年毎に御船手の者2人宛かわるかわる九州・匹|旧・中国の油々を巡兄すべしとの命令を受けた」ことです。そして918年伊勢の奉行として転何し、同時に船丁・の水主70人頂けられた」ということがつけ加えられています。改めて衛門正次の足跡を整理してみますと、彼は12歳の時に家康に見得して正式に家臣になり、31歳で家を相続して石川家の当主となって使番となり、その6年後に千石の加増を受けているのでかなり有能だったことがわかります。そして寛永2年に43歳で「船手」に就任し、翌年にまたも石を加増されています。そして寛永18年8月に山川泰行として転任するまでの約16年、浅草川河の船牙頭をつとめたのです。そして正傑元年に大隅守という位階を受けています。彼の62歳のことです。
 船奉行と船手この冤政重修諸家諧で兄る辰りでは、石川八左術門か「船于」として直接心川島に関係したのは、前記のように約16年問でしたが、その犀敷地は船丁役を外れてもそのままで、以後寛政4年までつまり「人足寄場」ができるまでの51年問も石川家の孫が住んでいたことは、すでに見たとおりです。ここで石川八左衛がのちの石川島になる寄洲をどのような理由で与えられたかを、改めて考えてみますと、彼が「船手」役に命じられたためです。この「船手」とは例えば江戸墓府役職集成(笹間良彦著 雄山閣刊)ではなぜか船参行の項日はなく、いきなり御船手頭 幕府の船舶を管理して、海上の運輸の事を掌った。寛永9年(1632)に向井将監がこれに補され、五紺に分かれていた。このうち向井将監だけは代襲であった。御船蔵御番所と役犀敷は霊岸鳥にあった。御船手頭の支配、水主(釘.組、向井組は84人.他は49人、45人、415人、49人の編成)とあります。これを幕府の入事異動のほとんどを記録した『柳営補任』で見ますと、その町、巻に御船奉行と御船于の任免が記載されています。要点だけを紹介しますと、御船奉行(或は人坂御船手ともいった)は、人坂冬・夏の陣(慶長19年・元和元年)当時は九鬼長門守と千賀一八郎・中嗚与五郎したが、小笠原安芸守信盛・向井右衛門直宗・小浜民部久太郎の3人でした。それに続く御船手の方は、向井将監忠勝・向井兵庫忠宗・石川八左術門次の3人でした。将監は柳営補任では大坂冬の陣(慶長19年)から従軍し、寛永3年く1626)には三浦の舟番所頭も兼務しています。さらに寛永9年には走水(横須賀市)の舟番所頭も兼務になりました。この将監の寛永2年7月27日現在の禄高は六千石、寛永9年6月25日には家光の特命で伊豆で将軍用の巨艦の安宅丸を建造したことで有名です。向井兵庫は将監の同族で寛水9年8月1411を預り、将監の知行の内の二千石を相続しています。この兵庫から船丁に任命された石川八左衛門、次の計3人の船手が、前の船奉行の3人と共に幕府海。箪の主力だったといえます。この当時の二つの役職は、幕末のような「幕府の船舶管理と連輸」だけではなく。大坂夏の陣の砲撃戦で活躍した船奉行配下の咳艦群と。向井将監の持場の兼務状況でもわかるように、船手はいまの束京湾令体の警備隊だったわけで、幕府海申の幟力そのものた・つたといえます。なお7柳営補任にはもう二人の石川姓の船手役がいます。人は「御使番より寛永9年6月29 に船手になったと記録されている石川八左衛門重政です。人は八左衛門正次の就任よりも約1年4力哨たった「寛永11乍l曰HO目に使番から船予に就仔」した石川六左衛門鰍勝です。前の政の方はすでに兄たように寛政重修諦家譜では次の祖父の名ですから、寛永9年から約260年たった時点で作成された『寛政重修諸家譜』では誤記をしたものと捌定されます。重勝の方は同じく「諸家諧」で見ますと、正次の弟の子の船于・役在職中は寛永14年6月8日に没しています。また『桐』営補任にもどリますと、時代はずい分後になリます。